~澄んだ空と真田信幸~

kiyoppy

2011年09月24日 01:30


こんばんはー
今、仕事帰りです。

涼しくなって
過ごし易い横浜です。

写真は山梨の山と空です。

とても澄んだ空でした



家康がこの山梨(甲斐)を手中にし、
真田昌幸の上田城(長野県)を
攻めます。

その頃、真田家は
上田城、沼田城(群馬県)一帯に
勢力をはる小勢力で、

上杉景勝、北条氏政、徳川家康、羽柴秀吉と
大勢力に囲まれた状況でした。

上田城には真田昌幸、
沼田城には北条氏政を牽制する為、
嫡男真田信幸(信之)が
真田幸村の兄です。
城主となっていました。

徳川軍が上田城を猛攻し
上田城は二の丸まで
落とされます。

しかし…
二の丸まで簡単に落とさせたのは
昌幸の罠でした。

楽勝と思い徳川軍は
本丸を猛攻しますが
損害が大きくなるばかりで
なかなか落とせません。

徳川軍に疲れが出てきます。

そこへ戸石城(北長野県)より
総大将の真田信幸が
上田城に向かってきます。

あれと思われたかも知れません。
総大将は真田昌幸ではなく
真田信幸でした。

徳川家康は内心しくじったと
思ったそうで撤退命令を
急いで出します。

疲れ果てて志気が下がっていた
徳川軍に真田信幸の
本隊が川(名前忘れた)を
渡ろうとする徳川軍に
襲いかかります。

徳川軍は散々にやられ
戦意喪失。我先に逃げるのみ。。

この時、川にとどまり
兵士を真田軍に
向かわせようとしたのが
鬼彦左こと大久保彦左衛門です。

しかし、戦意喪失をした兵士は
彦左衛門の叱咤激励にも
耳をかさず、逃げまくります。

結局、徳川軍は
面目丸潰れの大敗北を
喫するのです。

真田昌幸の作った城で
甲斐(山梨県)を手中にした
家康はその真田家に
思わぬ大敗北を喫するという


皮肉な結果となるのです。

そして、総大将である
真田信幸に惚れこんだのが、
徳川四天王の一人、本多忠勝でした。

本多忠勝の娘はまだ嫁にいっておらず、
本多忠勝は真田信幸に
嫁がせたいと思ったのです。

策士、本多正信の提案だったとも言われます。

しかし、徳川の家臣の娘では
対等に渡りあっている真田家が
承知しないと考えた本多正信は

本多忠勝の娘を家康の養女にします。

そして、家康より、婚姻を申し込んだのです。

真田家は承知せざるを得ず、
真田信幸はその娘と婚姻します。

それほど、総大将である真田信幸の資質、
働きは見事であったのでしょう。

この戦い第一次上田合戦に
弟、真田幸村は参戦して
いないようです。

このことが、
後の関ヶ原の戦いにおいて
信幸が家康方に、つく布石と
なったのです。

そして徳川秀忠の関ヶ原の戦いに
遅れる伏線ともなりました。

リベンジに燃える
大久保忠隣、徳川四天王の榊原康政ら武闘派が
上田城攻めを主張し、攻めあぐねても
撤退をすぐしなかったのは
二度も真田に敗北するのは
徳川の面目が立たないという
気持ちからでした。

秀忠は関ヶ原に行きたいのに
面目丸つぶれと意気込む
武闘派を抑えきれずダラダラと
上田城攻めに時間をかけてしまった上に
関ヶ原への大遅刻
という結果になってしまいます。


話しはもどりますが

関ヶ原の戦い
昌幸、信幸、幸村が
一方について一緒に戦っていたら
と思うと面白いですね。。

策士、真田昌幸
総合力の真田信幸
日本一の武士、真田幸村

うーん
痺れるメンツ

真田昌幸は政治も優れています。

それを全て信幸に任せています。

真田昌幸が全信頼を置いた信幸。。

北条氏政、上杉景勝、直江兼続と挟まれた
沼田城をあの昌幸が
任せた嫡男真田信幸。。

それだけで武、智、政と揃っていたという証。だと思います。

真田信幸は関ヶ原の後、
松代に領地を移され
昌幸、幸村の助命を家康に
願いでています。

このことは真田信幸が
領地の加増を辞退して
父、弟の命を助けたのです。

信幸がいなければ
大坂城での真田幸村の
特攻はなかったのですね。

弟と違って兄、真田信幸は
政治も優秀な人で民衆、
そして徳川家の老中達、
土井利勝(老中筆頭)にも
尊敬されていました。

この信幸の松代藩は明治まで続くのです

あ写真は真田信幸です。



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